《映画》アパートの鍵貸します


「愛してる……」

「黙って。ほら、カードを配ってよ」

 

 これは名画「アパートの鍵貸します」のとある名シーンの台詞である。それがどのシーンにあるかは、読者の皆さんがご自分で確認していただきたい。もう見たことのある方は、あのシーンを思い出していただければと思う。

 というわけで、今回の映画紹介のコーナーはビリー・ワイルダー監督の「アパートの鍵貸します」(1960年)だ。どうしてこの映画なのか? 簡単なことだ。気づかないだろうか? 今回のテーマは「びりびり」……そう、監督は「ビリ」ー・ワイルダー。くだらないが、びりびり映画がどうも思いつかなかったもので、許して欲しい。わたしの映画愛の至らなさである。

 

 どうも冴えない独り身の普通の会社員C.C.バクスター(ジャック・レモン)は、頼まれたら断れないたちで、自分のアパートの部屋を上司たちの愛人との密会の場所に貸し出していた。上司たちはそれと引き換えにバクスターをシェルドレイ部長(フレッド・マクマレイ)に推薦していた。ある日シェルドレイ部長に呼び出されたバクスターは、部長から管理職になることを打診され、その引き換えとしてアパートの部屋を貸せと頼まれる。承諾した彼は、当時はやっていたミュージカル「ミュージックマン」のチケットを二枚、部長から貰い、密会の間そこに居ろと言われた。そんな彼が思いを寄せるのはエレベーターガールのフラン・キューブリック(シャーリー・マクレーン)。バクスターはチケットをもって意気揚々とフランのもとへむかい、デートに誘う。だが彼女には先客がいた。それは男性で、彼女は本気なのだが、相手はそうではないらしくもう破局するらしい。先客と話を付けてからロビーで彼女は落ち合おうといい、バクスターは感激する。だが彼女は来ない。なんと彼女の先客というのは妻子持ちのシェルドレイ部長だったのだ。部長は妻との離婚をちらつかせ、フランを連れてバクスターのアパートへと向かう……。そして物語はどんどん展開し、とんでもない方向へ……。

 

 この映画の魅力はなんと言ってもやはり主人公バクスター君のキャラクターである。彼は凡庸で、冴えないが、どこかに魅力がある。フランのことを、どんな状況になっても想っているから、彼女の前ではどんなにつらくても笑顔を絶やさないし、シェルドレイ部長とフランの関係を知ってしまった時はやけ酒をしつつ、その後とある事件があったらすぐにフランのためを思った行為をする。その痛いまでの自己犠牲とか、なんとなく弱気な感じとかが非常にリアルなのだ。中には(特に女性は、かも知れないが)、バクスター君のあの雰囲気があまり好きではない人もいるかもしれない。もっとがんばれよとか、もっと強気でいけよとか、そういう風に思う人もいるだろう。だが、一度でも(本気の片想いの)恋をしたことのある男なら、嫌いにはなれないだろう。最後の展開は、「いやあ、普通はそううまくはいきませんよ、ワイルダーの旦那」と思わないでもないが、フィクションだからこそ、ああいう展開でなくっちゃいけないのである。

 邦画界でのヒューマンコメディ映画の雄(という風に持ち上げるのは彼に似合わない気もするけれど)、三谷幸喜氏がビリー・ワイルダーを尊敬したというのもよくわかる。よくできているのだ。そして面白い。少々長くて、途中少し飽きてしまいそうになるのが玉にきずだが、ラストシーンを見終わった時には不思議な満足感がある。三谷映画の見た後の満足感と同じだ。リアルで冴えない平凡な主人公が、その純情さと優しさと一方で弱気さで、誰もが憧れる女性を最後にはものにする(とはいえ、この映画の魅力は、本当にものにしたのかはわからないまま、キスシーンもなし、両思い確定シーン(?)もないところである。最後まで二人はミスター・バクスター、ミス・キューブリックと呼び合っている。これがまたいいのだ)。リアルで冴えない主人公だけれど、邦画の青春映画みたいに臭かったり、小恥ずかしくなったりしないのは、主人公がどこか道化っぽくて、笑えてしまうからだろう(むしろわたしはそれがリアルに思えたりもする。片想いの男というのは、どこか、ハタから見れば道化のようなおかしさをもっている)。ラヴストーリーは、ドロドロや青春より、やっぱりこうでなくっちゃ、なんてわたしは思う。

 

 さて、この映画の中で結構キーワードとして登場する言葉がある。それは、サブキャラクター(ある意味メインキャラクター扱いでいいかもしれない)のおそらくユダヤ系であろうドレイファス医師(ジャック・クラッシェン)の言葉だ。「大人になれ、バクスター。メンチュになるんだ、意味はわかるかね? 人間(human being)だよ」。この「メンチュ」は最後の最後でも登場する。これは一つのキーワードだろう。

 メンチュ、はおそらく、Mensch(メンシュ)だ。これはドイツ語で「人間」を意味する。辞書によるとアメリカ英語では「思慮分別のある人」という意味でもあるらしい。ドレイファスは、アパートから毎晩、「行為」の音や、パーティ騒ぎの音が聞こえる(もちろん、密会のせいである)ことからバクスターを遊び人と誤解しているため、「大人になれ」と忠告しているのだが、最後にはバクスターはこれを「一人前の人間になれ」と解釈したように思う。そして最後にはこう言い放つ。「僕はメンチュになりたいんです。人間です」

 この映画はサラリーマン社会の風刺とも言われている。上司の命令は断れない。ビリー・ワイルダーは、そんな奴隷のような生活では「メンチュ」になれない、勇気を持って「メンチュ」としての尊厳を取り戻そうと言っているのかもしれない。

 さて、わたしたちはどうだろう? もしかすると、嫌なことがあってもいやと言えない状態というのはよくあることなのかもしれない。そういう状況というのは、「勇気を出せ」とか「強くなれ」なんて言葉をかけられたところで簡単に打開できるものではない。だからこそ、フィクションの世界でバクスター君のような一見平凡な男が代わりに戦ってくれるのである。そして代わりに、片思いをただの片思いでは終わらせないのである。そして、ひょっとすると、そんなわたしたちの一種の「妄想(フィクション)」の世界の戦いがわたしたちに生きる力と何かを使用という勇気を与えてくれるのかもしれない。「そうか、メンチュになる、か。ヒューマンビーイングか」たまに忘れてしまうことを、わたしはこの映画を見て思い出したような気がした。

 

「アパートの鍵貸します」はやはり名画だ。ぜひ見ていただきたいと思う。楽しさと深さを両方もっている。本当にすばらしい作品というのはそういうものだと思う。そういう作品の深さというのは、身構えなくてもなんとなく理解できるものだ。何てったってエンターテインメントなのだから。だから、そう、肩の力を抜いて、楽しんでみて欲しい。古くさいなんて言わないで欲しい。今でもバクスター君は魅力的な面白い人物である。最高のエンターテインメントは永遠に不滅なのだ。

(記事:KEBAB)

「アパートの鍵貸します」より。バクスターがパスタの水をテニスラケットできる有名なシーン。
「アパートの鍵貸します」より。バクスターがパスタの水をテニスラケットできる有名なシーン。